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アレックスの日々想うこと

人間中心の霊性から真の宇宙的霊性への進化 何事もポジティブシンキングで人生を謳歌していきたいですね。

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皆様、おはようございます。
このブログですが、最近はオムネク・オネクに関する事で占めていますが、昨日、長女からメールがありました。
「私はアセンションした惑星から来た」(オムネク・オネク著 益子祐司訳)と言う書籍を全部読んだとの事でした。
そして、「とても腑に落ちる話でした。読んですーっと心が軽くなったし、世の中の事が俯瞰的に見えるようになった気がします」との事でした。

他に、この本の素晴らしさを伝えている感想文をご紹介します。
        ↓
私が感動したオムネク・オネクの体験
素晴らしい人間性の4人の友人たち

8月11日に本を渡しましたから、たったの一週間で読んだと言う事になりますから驚くべき早さでした。
若いと知識の吸収も早いんですねえ。
加えて、小学校の教師をやっていますし、「素直さ」と言う資質も関与しているのかも知れません。
二人の娘達には、私の経験から創価学会の会員にしていませんし、訪ねて来る学会員も自宅には入れない様にしていました。(笑)
その様にして、創価学会から完全にシャットアウトしていました。
幸いにも変な創価学会のおかしな部分が染まっていません。

二人の娘達に地球の置かれた現状をどの様にして伝えるのか?課題でもありました。
話変わりますが、先の記事でも
日蓮さんの教えも、天台仏教の流れの上に構築されて来ましたから、間違っているとは思いませんが、絶対に正しいと言えるか?どうかも分かりません。
もちろん、教えには役に立つ箇所がたくさんありますし、否定しません。
だから、解釈にしても人それぞれですから、私は根本にするのではなくて、参考程度にする方が良いと言っているのはその為であり、その方が制限を設けてしまう事を防げますし、偏らなくて済むと思うのです。と言う事を述べました。

その理由として、仏法に九識論(くしきろん)と言う生命観がありますが、アダムスキーの言う生命の科学とでは、感覚器官に対する考え方が異なります。
九識論は、もともとインドの大乗仏教の一学派である唯識学派が立てた法理ですが、天台大師にも受け継がれ、日蓮大聖人様も用いられています。

外面的に現れている部分から、生命の源の部分までを順に分類していくと 次のようになり、


五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識。外的情報を察知する意識)
意識(六識・第六感。経験や学習により、思考する意識。知性・理性が形成する意識)
末那識
阿頼耶識
阿摩羅識

感覚器官による認識作用として、九識の「識」とは、外界を認識する生命の働きのことです。
はじめの五識は、
眼識(がんしき)耳識(じしき)鼻識(びしき)舌識(ぜつしき)身識(しんしき)と言って、
眼・耳・鼻・舌・皮膚という五つの感覚器官の働きによる認識作用です。

そして、第六識の意識とは、五官を通して入ってくる外界のさまざまな情報を生命の中で統合し、一定の判断を下して自分の行動を決める働きのこと。と言う事になっていますが、

アダムスキーによれば、金星の生命の科学
(アダムスキーの宇宙哲学48~51ページより)では、

五つの感覚器官ではなくて、四つの感覚器官と言う事になっています。
四つの感覚器官とは、
眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)の事であり、
身(触覚
)とは独立していると言うのです。
その理由としては、大変話が長くなりますので一部抜粋と言う形で引用掲載させて頂きます。

第6章・人間は四つの感覚器官を持つ
そこで生ける人間を分析してみよう。人間はこれまでに五つの表現の経路、すなわち視覚、聴覚、味覚、嗅覚及び触覚を与えられているとあなたは信じてきた。
これらの属性のいずれも互いに他から独立して活動する能力を持っていると思われている。
我々は目を閉じて聞いたり味わったり嗅いだりできる。
聞いたり嗅いだり見たりしないで、甘いものと酸っぱいものを区別することは可能である。
また視覚、聴覚または味覚の器官を用いないでニンニクとバラの相違を確実にいい当てる事が出来る。
そこでわれわれの感覚器官は互いに独立して働いてことを証明することはできる。
しかし、ここで第五感として知られているものを除くことにしてみよう。
すなわち、人間から触覚を取り去る事にするのである。
ただちにどんな結果が起こるのだろうか。
その結果は無意識の状態である。
他の4つの感覚器官がまだ肉体の中に存在しているとしてもその機能は停止してしまう。
目、鼻、口、耳などは無傷のままだが、それらは見たり嗅いだり、味わったり、聞いたりはしない。
明らかにこれらの各器官は触覚から独立して働くことはできないのである。
このことは触覚なるものが感覚器官ではなくて、各感覚器官へ感覚を与えている意識的な力であるという事を立証しないだろうか。
各感覚器官はそれが触覚と言う生命力によって支えられている限り他の器官とは独立に作用する事が出来る。
しかし触覚すなわち意識は(右の)4つの感覚器官とは全く別に独立しているのである。
視覚、味覚、嗅覚、聴覚などの各器官はすべて破壊されるとしても、触覚が残っている限り人間は意識的な活動的存在であり、喜びや悲しみ、なごやかさや苦痛を知り、全く生きた人間そのものである。
触覚は破壊されない。それは永遠に存続する英知である。
肉体の破壊は意識である触覚までも破壊することはできない。
それは光を生み出すために針金を通って電球へ流れる電気のようなものである。
もし電球が破壊されれば電気は電球に光を生じさせることはできないが、電気は破壊されない。
一方、電気が除かれれば電球がどんなに上等だろうとそれから光は出て来ない。

この数年間に科学界は、肉体が完全保護のもとに数か月間仮死状態を続ける多くの例に注目している。

各感覚器官は正常であるけれども、しかし意識的な状態で機能を果たす事を停止している。
何故だろう?それは触覚の大部分が肉体を離れたからだ。
つまり、意識の約99%が肉体を離れてしまう一方、肉体内の触覚の1%が肉体の崩壊を防いでいるのである。

しかし、これは肉体内に明白な知覚力を起こすのに十分ではない。
このような例の多くは再び生命を取り返している。
これは触覚が再び肉体を所有し、不活発な各感覚器官を生き返らせて、それらの中に意識的な知覚の状態を生じさせたからである。

正しく理解されるならば、人間のこの4つの感覚器官は創造の4要素(地・水・空気・火)と完全に一致している事が分かる。
そして、いわゆる第五感すなわち触覚は、意識的な機能を生じさせるに必要な生気を各感覚器官に分かち与える刺激物なのである。
言い換えれば、この触覚は、宇宙のありとあらゆるものを制御し、支持し、活気づけるところのある無限の意識的な感覚を伴った、4つの感覚器官の統一体なのである。
肉体を持つ生ける人間を意識的な力の意識的な利用者にするのは、触覚を仲介とした4つの感覚器官の展開なのである。
各感覚器官のこの教育を通じて、視覚は粗雑な物質的形態を超えて拡がる顕微鏡的視力となり、聴覚は音なき音波を捕えるように拡大されるのである。
4つの感覚器官のおのおのは、それらを支えている「父母」想念であるところの「宇宙の触覚」を認識することによって、より大きな知覚の領域へ自分自身を押し進めるのである。
(アダムスキーの宇宙哲学
48~51ページより)

以上になりますが、
感覚器官に対する考え方ではどちらかが正しいか?と考えたら、苦悩すると思いますのでそう言う事もあると受け止めれば良いのではないかと思います。

他にも数学ですが、地球では十進法で他の惑星では九進法で 0 (ゼロ)と言う概念がないそうです。
詳しい事はここでは割愛しますが、
仏教はもともとチベットにある神性の法則の聖典が拠り所になっていて、伝播する途中でどこかで変わった可能性も考えられます。
参考までに一度見直しが必要ではないだろうか?


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最近は、何故か?リフォームに伴うDIYが増えました。(笑)

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