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だから、こう言う事が分ってしまうと、人が哲学的な事を言う事に対しては、とても盲信的に信じる事が出来ないんですね。
それを防ぐ意味では、何をするにしても程ほどが一番良いのではないか?つまり、中庸ですね。これが結論です。
昔の人の言う事は、本当のことです。
「 何事も程ほどに!!・・・ 」
聞いた事がありませんか?中庸、バランスが取れている事の大切さですね。
中庸と言うのは、EAVで測ったら、50の状態ですねえ。10歳までの子供と同じですね。
でも、この状態って大人には案外難しいんです。
ほら~!年の良い大人が、子供達には教えられると言う事を聞いた事ありませんか?
その為には、一緒に学ぶ相手が居た方が効率的な訳で、それが友人だったり、家族だったり、夫婦だったりするんですね。
貴方の一番嫌いな人が、もしかしたら来世では友人だったり、家族だったり、夫婦になるかも知れないのですよ。
この中庸な状態で生きていけば、色々と学ぶ事が出来る訳で、その為には中庸な生き方が出来る様に進化する必要がある訳ですね。
中庸とは、男性性と女性性との陰陽のバランスです。
今の世の中は、男性性が飛び抜けて争いが絶えないのです。
そこで、女性性である「受容」が大切になってくるのです。
そう言う意味では、宗教にはまり人様に布教する程、熱心になれば、それはちょっと危ないなあ!
この時点では、ご自身の矛盾にも気付いていないのですから、始末が悪いとも言えますが、時と共にやがてはいずれ気付いて行きます。
人生の色々な経験を積めばです。でも、経験を長く積んでいる方が・・・・。
これもそうでもないみたいですから、その辺も難しいですねえ。
まあ!誤りを感じたらすぐに素直に認め反省する勇気が必要ですね。
でなかったら、人様に布教なんてするもんではありません。
何事もそうですが、その教えを中心に生活があると言う状態ではなくて、生活そのものが教えと言うのが望ましいのです。
毎日毎日の出来事に色々な意味があります。
自分自身にも周囲の出来事にもすべてに意味を持ちます。
それらを楽しむ心のゆとりが欲しいものですね。
そして、苦しい時もあるでしょう。でも、後で振り返って見て「ああ!こう言う事だったのか!」と思えたら、立派な精神世界を味わっている事と思います。
教えは、あくまでも人生の手助けであって、人生の根本ではありません。
参考程度に留める方が長い目で見て望ましいのです。
その方が自分自身を冷静に見る事が出来ます。
そして、人の苦言にも立腹する事なしに喜んで聞き入れましょう。
これは、他ならぬ自分自身のためなのです。
そう言っている私も、気をつけないとね・・・・・・・・・・。
肉体は滅びても、心や魂などの精神的な所は、永遠不滅の様です。
ですから、人生慌てず生きていきたいものですね。そう言う事を教えてくれました。
これからも、あの精霊達はお会いした人々に良い方向へ導いていく事でしょう。
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