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アレックスの日々想うこと

人間中心の霊性から真の宇宙的霊性への進化 何事もポジティブシンキングで人生を謳歌していきたいですね。

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コメント欄にて、言葉の波動を測る際は、その言葉の文字を波動測定器で測るのでしょうか?それとも、言葉を唱えた時の自分の波動を測定器が測るのでしょうかと言った質問がありました。
良い機会なので、この辺りの関連した話をしょうと思います。


IHM、昔は国際波動友の会と言う名称でしたが、当時の私はその会員でした。
いつからか?良い意味で
IHMに変わった様です。
それにしても、長い間、ご無沙汰しており、知らぬ間に色々と進歩して来た様です。

今回の記事は、水からの伝言
「自分を愛すると言う事」の記事を引用転載致しました。

http://www.hado.com/books/dengon3.htm#mizuden3_phot_5 

上記リンク先の記事の中に、面白い事に「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の水の結晶写真が掲載されていました。
水を入れたビンに文字を貼り、24時間置いて後に写真を撮られた様ですね。
(その辺りは、
いろいろな水を凍らせて顕微鏡で撮影し、写真撮影をしたそうです。)
両者だけならば、どう見ても「南無妙法蓮華経」
(写真2)の方が結晶が美しいですねえ。
均整のとれた美しさに言霊の力を感じさせる結晶が得られましたとの説明があります。

それに対して、「南無阿弥陀仏」
(写真3)「懐の深さを感じさせる結晶です。結晶内部に見られる光はピンクと緑であり、この2色は波動的に愛と感謝に対応する色だそうです。 」との事で、意外なコメントにびっくりしています。
その理由は、昔から日蓮正宗の「四箇格言」では、法然の選択本願念仏集には、「捨てよ・閉じよ・閣けよ・抛てよ」と法華経を毀損していると言う事で「念仏無間」と言うのがあります。
だから、そのイメージに比して意外な結晶の写真結果とそのコメントであった訳です。
今回の記事はそれが目的ではありまん。

「永遠」の文字の結晶も美しいですねえ。
今回の記事で、特に注目したいのは「合掌」と「合掌の所作」についてであり、下記の様なお話が載っていますので引用転載しておきます。


手を合わせて祈るエネルギーの強さの検証も行いました。
これまで水に対する祈りを行う ときは、結界をつくるというイメージから水を皆で囲み、そこに対して祈る、もしくは言葉をかけるということを行ってきました。
しかし手をつなぐよりも合掌する方がエネルギーは強まるのではないかという推測から比較実験を行ったのです。

同じ蒸留水のビンを2つ用意し、社内スタッフに協力してもらい、写真のように祈りのスタイルに変えて水に祈りました。
手をつないで祈った水の結晶2パターン
(写真10・11・12)と、合掌して祈った水の2パターン(写真12・13)の違いは、両者が水に与えたエネルギーの違いといえるのではないでしょうか。

 人は感謝の気持ちを表現したり、神社仏閣などで畏敬の念をもつとき、思わず手を合わせます。
そういえば私の亡くなった祖父は昇る朝日に手を合わせていまし た。  
合掌をすることで得られる効用は、じつは誰しもが体感して知っていることではないでしょうか。
合掌しながら怒りを持続することは困難です。
気持ちを落ち着 かせ集中させる手助けになるのが、まさに合掌のスタイルであり、その気持ちの集中が純粋なエネルギーの発信へとつながったのではないでしょうか。
純粋な思 いほど水には伝わるのです。


なるほどなあ~
同じ言葉をかけるにしても、手をつないで祈るよりも手を合わせて合掌する事の方がエネルギーが強まると言うのです。
だから、祈りのスタイルと言うのは、手を合わせての合掌の方が好ましいと言う事であり、これは畏敬の念、敬意を示す念があれば自然と手を合わせるのでしょう?
これならば、昇る朝日に手を合わせて祈るのも無宗教の人でも通用する事ではないでしょうか?
太陽は、我々物質界の生命の源であり、太陽が無ければ我々は宗教のある無しに関係なく生きていかれません。
それに対応するように、あの世の生命の源はなんと霊界の太陽なのです。
これを古代エジプトでは太陽神「ラア」と呼んでいました。

これに関連して、「霊界」について話をしょうと思います。

あの世の住人達は物質的肉体を持たない意識体ですが、霊界の太陽から流れる霊流にて存在出来ていると言う話なのです。
これについての詳しい記述は、エジプトの死者の書にあり、霊界の天地創造の伝説をご紹介しょうと思います。

*太陽神ラアは、霊界という世界を作った創造者であり、また、霊界に生命と光を与える霊界の生命の根源であります。

*霊界には、「ヌウの沼」と言われる沼があり、霊界の最北端の深い山奥にあると言われて、誰一人その沼を見た者は居ない。

霊界が創造される前に創造されたものがあり、それが太陽で、太陽神ラアが生まれたのは、言葉の神トトによる霊界創造より前なのです。

*霊界の太古のまた太古の頃、霊界にはただ水だけしかなかった。その水はまるで永遠に水は水であり、水以外のものがそれから生まれるとはだれにも想像も出来なかった。しかし、水の中には二人の神が住んでいた。否、住んでいたと言うよりは二人の神は水そのものだったのだから水の精と言う方が良さそうだ。二人の神は男神ヌウと女神ヌウトだった。
(霊は通常「クウ」と言う霊体を持ち、その中に霊魂を持って生きているが、ヌウとヌウトの両神は霊魂そのものであって「クウ」と言う霊体を必要としない、「クウ」無しでも生きる霊魂であって、まさに霊魂そのものである。また、霊魂は実は水である。「クウ」に入れば、霊の霊魂になり、湖に入れば湖の霊魂として生き続ける。では、最初の一滴の水はどこから来たのか?それが「ヌウ」の沼に生じた「原始初生の一滴」の水であった。その一滴が二滴とに殖え、三滴、四滴と卵を生んでこの世(注意;霊界の事)に満ち、今のような無数の霊となったとも言う。)

*ある日の事、一面だらけの水面に大きな波が二つ起きた。二つの波は遠く離れた水面に起きたが、それが次第に寄り添って行くとやがて互いに砕け合った。そして、そこからぽっかりと一つの丸いものが生まれ出た。これが太陽神ラアの誕生であった。男神ヌウと女神ヌウトは、ラアの為に空を生んでやった。ラアを浮かべる天の水面としての空がラアには必要だったからだ。ラアは、この天の水面に上っていき、そこに浮かんで霊界の生命の根源となった。

*こうしてラアと空が新たに生まれ、その世界の最初に天地創造の神トトが登場します。その後、さまざまな神が生まれ、ヌウとヌウトは初めから存在した神なので自戒の神と言われている。


*霊界では呪文や祈りがあり、これは霊界そのものが言葉の神トトの言葉によって創造されたものである事、霊界がつまりは言葉の世界だからである。つまり言ってみれば、「初めに道(ことば)ありき」なのが霊界なのだと言えます。

*「ラアは水より生まれたり、青空またラアに続きて水より生まれたり・・・・・・」霊界はそ の昔の太古、水からラアが生まれた、青空も水から生まれた・・・とされている。水を全ての母とする霊界の世界創造神話がこれですが、それになぞらえて霊達は今の様な呪文を唱え、これによって自分の時計の針を逆に回転させ、自分の原始初生の時に帰ることが出来る。

*霊界の太古の頃は、全く素朴で原始的で牧歌的でもあった。

今回は、ここまでにします。詳しくは、「エジプトの死者の書」を読んで見て下さい。
仏教の九識論人間の意識とは何か?ヒントが得られるでしょうし、宗教に対する見方も変わってくると思いますがね。^^

次回は、霊界旅行のご紹介の予定にしていこうと思います。


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最近は、何故か?リフォームに伴うDIYが増えました。(笑)

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